2021年5月の月報大祭号をアップさせていただきます。
教会長、若先生の原稿のみとさせていただきます。
生きる力が萎えないように
教会長
今年の天地金乃神大祭は、昨年に続いてコロナ禍の中でのご奉仕となりました。「無参拝・遥拝」とまではいかないにしろ、難しい状況の中で、できるだけのお礼の心を表したいものです。
さて、現代社会においては、いろいろな観点から人類の安全安心便利が追求されています。私たちはその恩恵に与って生活をさせていただいているのですが、反面、守られ過ぎていることによる危惧を抱かずにはいられません。その危惧とは、安全安心便利を求めるあまり、人間が本来神様から頂いている大切な生きる力を萎えさせているということです。
安全安心便利を求める方策と、人間の生きる力、自らを自ら守る力を萎えさせないようにすることは、とても両立が難しいことです。しかし、このバランスが崩れると、結局安全安心便利を求めながら生きる力を失ってしまって、命を危険に追いやってしまうことになるのではないでしょうか。
◯
今年二月頃から、教会近くの片側五車線の信号が数か所、普通の信号から矢印信号に変更されました。その変更の理由は、横断歩道における交通事故を減らすためだと思われます。
まず①直進の矢印青が点灯、歩行者信号が青になります。②次に歩行者信号が赤になり、同時に左折の矢印青信号が点灯します。(直進も青。ここまでの時間は左折できない。)③次に直進、左折の矢印青信号が消えて、右折の矢印青信号が点灯します。(ここまで右折車は交差点に入ることができない。)
この変更で、歩行者の青信号が短くなり、左折車は動ける時間が三分の一ほどになり、右折車の動ける時間も短くなりました。これらも困ったことですが、一番心配されることは、結果的に普通の交差点での事故が増えるのではないかということです。というのは…
この交差点については、左折車、右折車の運転手が歩行者は渡らないことと認識する。するとほかの普通の交差点においても、歩行者は渡らないという感覚が育ってしまい、無意識に歩行者に対する注意が散漫になる。
歩行者も、「横断歩道は信号を守れば安全」という「勘違い」が沁みついてしまい、すなわち身を守る力が萎える。
つまりこの交差点では事故が減ったとしても、他の大多数の普通の交差点での事故は増える可能性が高くなるのではないか、というように私は思います。
前にも述べたように、安全安心便利を求めることと、身を守る生きる力を萎えさせないようにすることとは両立が難しいことです。しかし今回の信号の変更は、とてもバランスの悪い「改悪」だと思えてなりません。
◯
四月の初め、妻のみき子先生が入院して手術を受けました。彼女も息子二人と同じ、「もやもや病」という脳の血管の難病を持っています。十七年前に左側の脳のバイパス手術を済ませていますが、当時右側の脳の血流はまだ手術するほどではないということで、経過観察してきました。しかし最近になって左足がしびれることがあったようで、診察を受けて手術を受ける決断をしました。私たち家族には、何ら差し障りがあるようには思えませんでしたが、本人のところでは、結構切迫感があったのでしょう。きっと本人は本人なりに神様と対話して決断したのだろうと思います。つまりみき子先生は、「神様からのお知らせと思いついた」のだろうと思うのです。
◯
教祖様、安政六年秋のご事跡に、「牛使いの話」があります。十五才の息子浅吉さんに牛を使わせるよう神様からお知らせがありました。そのとき奥さんが、「牛はしばらく家にいて、外へ出した最初は暴れることがある。最初はあなたが使ってやってください」と言うのです。教祖様も『それももっともだ』と手綱を取るのですが、牛は暴れてとても手に負えません。そのとき教祖様は、「私考え、これは神様お知らせと思いつき、せがれに使えと」手綱を渡すのです。すると不思議、暴れて手に負えなかった牛が、静かになって息子の言うことをきいたというご事跡です。
◯
安全安心便利が求められ、生きる力が萎えていく世の中に私たちは生きています。そこでいよいよ求められることは、神様と対話して、「神様のお知らせと思いつき」という感覚を磨いていくこと。これしかないように思われてならないのです。
ここから!さあ!
鈴木 輝夫
皆さん、天地金乃神大祭を迎えることができましておめでとうございます!金光教の人は大祭に「おめでとうございます」と言いますが、果たして何に対しての「おめでとう」なのか、疑問に思いませんか?(私も使ってます笑)この日を無事に迎え、参拝ができたことが、おめでたいのでしょうか?
天地自然をお造りくださった神さまのはたらきがなければ、私たちは一日も暮らせないのです。空気がない世界で暮らせますか?水がない世界で暮らせますか?他にも人間が造り出せないものばかり。科学的説明はできても、その起源、はたらきは神さまなしでは説明できないと、私は思います。
金光教では、そのような神さまを天地金乃神と呼んでいます。日頃、何気なく過ごしていると、神さまのはたらきに気づかず暮らしていると思います。そのはたらきに少しでも気づき、感謝する特別な日が、この天地金乃神大祭であると私は思います。日頃の足りないお礼を最大限に表すのが大祭であり、「どうぞここから、常日頃から感謝できる私たちとなりますように」と願いを立て、また神さまからも願いをかけられているスタートの日でもあると思います。
結婚式のようなお祝い事でみんなおめでとうございますと挨拶をするように、大祭も感謝のお祝い事だと思います。いろいろな「おめでとう」の形があっていいので、感謝の「おめでとう」の形を、大祭に参拝できない方も、自分のできる精一杯のお礼をすれば、神さまに届くと思います。
さて、前置きが長くなりましたが、四月十五日に姉(義子先生)の夫となった誠人さんが、無事に約一年の金光教学院の修行を終えて卒業されました。
姉が二年前、私は三年前に学院を卒業させていただきました。なので、私は教師になって、四年目に突入します!!さあ、この三年で私がどう成長したかというと、自信を持ってここまでやってきた、というように胸を張って言えることはありません。それではいけないですが。目の前のことをやっていたら、あっという間に三年という月日が過ぎていってしまいました。どれも中途半端で、何かあると人のせいにして逃げているような気がします。
「拝詞集」に学院修行時代の「信行手帳」を挟んでいます。毎日のご祈念で、その手帳の最初に書いてある文字を読むときがあるのです。その言葉とは「本部広前の御取次を仰ぎ、終生道の御用に立たしめ給わんことを祈りまつる」です。その言葉を見るたびに、自分の心の弱さを痛感すると同時に身が引き締まります。『何ブレてるんだ〜鈴木輝夫〜もっとしっかりせんか〜』と神さまに言われているみたいです。この言葉は結構重みがあります。「終生」ですから。
前にも紹介したとは思いますが、私が学院修行の時の学院長(校長先生)が言っていた言葉で「慣れねばならぬ。狎(な)れてはならぬ」が、今でもずっと忘れられません。この言葉の意味は、「修行に早く慣れなさい。だけど、慣れすぎて怠けたり、甘えが出ては修行になりませんよ」ということです。
今、金光教熱田教会という場所で御用をしていますが、果たして道の御用になっているか。狎れてはいないか。自分の心に聞いてみればすぐ分かります。気持ちを新たに、初心を忘れず、ここからさらに信心を磨いていきたいです。皆さんも、自分の心に聞いてみてはどうでしょうか。仕事、信心、家族。初心を忘れずに。
いつも月報を書くときに意識しているのが、「読者に何か少しでもプレゼントを」ということです。少しでも読みやすい、物語を読んでいるかのような、書いている私自身も楽しく、と意識しています。今回は自分への戒めが強かったと思います。また、ここからポップで明るい月報をと心がけて取り組ませていただきます!!
0コメント