2022年1月 月報「あつた」

声 与えられしもの   教会長


おめでとうございます。本年もしっかりおかげを受けて、神様のお役に立ってまいりましょう。


しばらく前のこと、「あなたは自分の声が好きですか?」と尋ねられたことがある。私はそのとき、「好きになりました」と答えた。だれでも録音された自分の声を聞くと、「変な声だ」「こんな声ではない」と思ったのではないか。私は立場上、自分の声を聞く機会が多い。何度も聞いているうちに、だんだん好きになっていった。また随分前になるが、別の方から、「あなたはいい声ですね。ご両親に感謝しなくてはね」と言われたこともある。確かに父も母もいい声だった。祖父鍬一先生もいい声だったと聞いた。「与えられしもの」である。


昨年のご本部布教功労者報徳祭というお祭りで、私は「典礼」という祭員のお役を頂いた。お祭りの進行役で、金光様の先導をさせていただき、あの広い祭場で、私の声で祭事が進んでいった。不思議なほど緊張せず、祭場に響き渡る自分の声を気持ちよく聞いた。こんな感じで落ち着いてできたのも、「自分の声が好きだ」と思えていたからだろう。もし自分の声が嫌いであったら、こんなことにはならなかったに違いない。


教祖様は「所与を生かすことに長けていた」と教えてもらった。「所与」すなわち「与えられしもの」である。たとえば教祖様は生まれつき体が弱かったので、友達と同じように飛び回ることができなかった。それで神様ごっこのようなことをして一人で遊んでいたと伝えられているが、それが後の厚い信仰心につながった、というように。一事が万事で与えられたものを生かして生きられた。私たちが教えられてきた「生かされて生きる」ということの基がここにある。そして教祖様は、神様とつながってからはおそらく、「自分が生きている」という感じはなくなっていただろうと思う。


私たちは生きているのだが、自分で生きているという大きな勘違いをしがちだ。確かにいろいろな生きる自由は与えられているが、それはどこまでも、天地の間に生かされているから自由に生きていられるのに、そこに気がつかずに忘れてしまっている。「自分の力で生きている」となってしまっている。「生かされて」の腹入れが難しい。


声は出るだけでもありがたい。声も「与えられしもの」である。その声を生かすために私たちにできることは、せいぜい発声練習をしたり、活舌に気をつけることぐらいだ。与えられたもの(生かされて)を喜んで、好きになってわずかな努力(生きる)に努め、生かされて生きることを腹入れしていきたい。


落とし物   鈴木 輝夫


私は昔からよく物を落とす。しかも結構大事な物。覚えている物だけでもたくさんある。財布二回(小六と社会人)、新幹線の切符(電車の切符は忘れているだけで、多分落としていることもあったと思う)、カギ、ケータイ三回などなど、思い出したら次々と出てきた。それぞれにエピソードがあるのだが、いくつか紹介しよう。


二十四才のとき、林業の専門学校時代の友達の結婚式に招待され、八王子に行った。久しぶりに会うので、たくさんしゃべりたくさんお酒を頂いた。終電で名古屋へ帰る予定で、新横浜へ行こうとしたら電車で寝てしまい、ヤバいって目が覚めた。その駅で飛び降りたら新横浜の手前の駅で、次の電車で新横浜へ向かったが、新幹線の終電はもう終わってしまっていた。


次の日は仕事だったので会社に連絡を入れて、「マンガ喫茶にでも泊まって次の日の始発で帰るか〜」って思ってマンガ喫茶に入ろうと財布を確認しようとしたら、、、ないー!!!鞄にもポケットにもない!どうしよう!


周りを探して、警察にも行ってみた。だけどもない。ケータイの電池もなくなり、どうにもならなくなってしまった。「どうか助けてください」とどれだけ神様に願ったことか。特別にケータイを交番で充電させてもらって、横浜の従兄さとちゃんに電話をした。夜中の十二時過ぎのことだった。事情を話して、伯母の厚子さんの家に泊めてもらえることになった。十二時過ぎにもかかわらず、厚子さんがさとちゃんと一緒に迎えに来てくれた。


さとちゃんが「どうせなら横浜観光してきなよ〜。俺明日休みだから一緒に中華街に行こう!」と言ってくれたので、始発で帰ることはやめ、次の日財布を探してみることにした。


次の日、横浜中華街でご飯を食べていると、警察から電話がかかってきた。「財布見つかりましたよ」と。泊めてくれた関戸家、警察、拾ってくださった方、神様にお礼を言った。その落とした財布は、今でも大切に使っている。


新幹線の切符は小学校か、中学のとき、本部参拝に行く途中、新大阪で乗り換えるときに落とした。しかし、親切な人が拾ってくれて、乗り換えの新幹線も、予定通り乗れた記憶がある。


栂池で独り暮らしをしていたときの話。雪が積もっている中、夕方にロッジへ戻ろうとして、門柱のところへ停めた車から降りて、ロッジへ向かう途中にカギを落とした。雪の中二時間くらい探して見つかった。近くに誰も助けを、求めることができない状況だった。


ケータイは三回落としている。一回目は自転車に乗っていてポケットから落ちた。そのときはすぐに落としたことに気がつき、道を引き返したら見つかった。


二回目は、フォーゲルの全国キャンプ。金光の胎金寺(たいこんじ)キャンプ場で落とした。それも結構探して見つかった。


そして三回目はつい先日、通勤の電車に乗り遅れそうになって家から金山駅まで全力で走った。ケータイはズボンの脇ポケットに入れていた。仕事の現場に着いて、ケータイを確認しようとポケットを探ったが、、、、ない!!落としたとすると、走ったときしか考えられないと思い、帰りに交番で聞いてみたら届いていて、すごく安心した。


私はすごく物を落とすほうだと思う。それも結構大事な物を。しかしすべて手許に戻ってきている。これはすごいおかげを頂いている。同時に物を大切にしていないことに気づけよ〜って神様が教えてくれているのだと思う。何回も繰り返してしまうのに神様は優しく教えてくれようとしている。そして、たくさんの方のお世話になっていることにも気づけよ〜って教えてくれているような気がする。


神様が私にお礼のけいこのチャンスを与えてくれているのだと思って、物を落とすのを反省しながら、今回のこともしっかりお礼申して、気をつけていきたいと思っている。

金光教熱田教会

どなたさまもご自由にご遠慮なく、ご参拝くださいませ。宗教、宗派は一切問いません。金銭、入会金、悪徳な勧誘などは一切行いません。 なんでも話をお聞きしますので、小さな悩みなどある方は思い切って打ち明けてみませんか? 元気と笑顔溢れる熱田教会に是非来てみてください!

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